ressentiment

昨日は結局一昨日のこと引きずっててあまりやれなくて、今日は図書館で勉強。いい感じでした。

 


なんかあんまりまとまっていないけど、この3日間考えてることでもつらつら書いていきます。う~ん、今考えてること、結構長々と考え続けるような気がしている。

 

一昨日のことに関連して、自分より上の立場にある人物に対しての憎悪をほぼ無条件で持っている人間がその憎悪の総計が現実に不利益をもたらす程度にはいるってことを凄い意識するようになった。強者は弱者に施すのが当然と考え弱者であることから生じる何の論理的説得力もない要求の正当性を何も疑わない人間が多いこと多いこと。石田衣良R25のコラム、正義すぎる人たちで「自分が正義のサイドにあると信じる人たちの執拗さと復讐ほど恐ろしいものはない」と表現したり、内田樹先生が徹底的に批判している「自分が正しいと信じて疑わない」人間が僕は大嫌いだし、名門私立中高一貫→東大と進んできてぶっちゃけ外の世界なんてほとんど知らずに生きてきてそういうタイプの人間とはあまり関わらずにいたから気付かなかったんだけど、現実にはかなりの人数いるって実感した。

「東大生は挫折を知らない」(から厳しい現実社会では無能)っていう批判のようなものがあるけれど、それは単純に今まで成功し続けてきた人間が失敗して落ちぶれていく過程を見ることでカタルシスを味わいたいからって言ってるやつがいて、すごい納得し同時に他人の不幸を楽しむ人間に対しての嫌悪を感じたことがあるんだけど、そのときの感情と通底するものがあるものを今回の件で感じた。

「他人の不幸は蜜の味」はある程度しょうがないんだろうと思うけど、「メシウマ」は違うって感じるんだよね。叩く・意図的に炎上させるといった行為が正義に根ざしたものだと信じて疑わず、実はその行為が対象の不幸を増幅させているという事実に全く気付いてない人間が多いと思う。もちろん、対象の不幸を増幅させること自体が目的になっている人間がそういう行為をやるのだからその点では理に適ってるんだけど、その論理構造から抜け出して、ちょっとでも自分を客観的に見れたら自分の正当性を疑う能力も持たない愚かな自分を曝け出し、自分の価値を貶めている行為かに気付けると思う。なんというか、やっぱそういうことしちゃう人間ってダサいよねかっこ悪いよねっていう感覚が共有されてる関係の中で生きてきたから、いわゆるバカッターに関わるような事件が起きたときもそんな騒ぐことか???っていう違和感の正体に気付かないままだった。

 

最近になって官僚になりたいって感じ始めたのには明確なこれだ!っていう理由があるわけじゃなくて、漠然と日本が好きだからってのが大きい。そういう意味で今日たまたま目にした高校生の頃よく読んでいたGigazineチャリダーマンの記事がかなりいい。日本人であるから日本をあきらめないという選択、アリだと思います。気恥ずかしさもあって他人に言ったこともないしこのブログにも書いたこともないけど、官僚になりたい理由の中で一番強いのは、僕が日本人であるからって理由なんだよね。ほんとにそれだけ。日本人として生まれて日本で育って日本のこと好きだし、じゃあ将来は日本のために頑張るか、みたいな感覚。チャリダーマンの記事でも触れられているようにポイ捨てに対する日本人の嫌悪みたいな生活の細部にまで浸透している常識のそのまた根底にある漠然とした感覚は日本の中でも僕が特に好きな部分で、でも残念ながらそういった感覚が失われつつあるという危機感がある。こういった感覚ってたぶん幼少のときからの経験と大人になってからの自覚があって初めて成立するものだと思うんだけど、後者が足りてない人間の多さが前述の「自分の正当性を疑わずどこまでも攻撃的な人間」を生み出す源泉なんじゃないかなぁとも思ったり。幼少からの経験なんてそれ自体に良いも悪いもなくて、自覚さえしちゃえば客観的に見て良い行為に関してはあぁこういうことだったんだなぁ今後も続けよう、反対に悪い行為に関してはあぁこれが足りてないんだなぁ反省って感じで繋がっていくんじゃないかな。常識のその根底の感覚と正義を疑わないことが直接的にリンクするわけじゃないし別に論理的根拠があるわけではないんだけど、なんとなくそういう気がする。常識のその根底の感覚なんていちいち言語化できるようなものではないとも思うけど、一応こういうことについて今後考えていたい。