インプット/アウトプット

ブログ更新後、狙い通りモンハンしたり(相変わらずキリン亜種睡眠爆破)橋本治『窯変 源氏物語』の4巻を読みつつ開店直後のベローチェへ。なんか人少ないなと思ったら今日は土曜日。

ベローチェでは図書館で試験期間中に借りていたヴィドゲンシュタイン『反哲学的断章』を読む。図書館が開く時間になってからはベローチェから図書館へ移動。小雨がぱらついていたので途中で家に寄って折り畳み傘を。結局使わなかったんだけどね。

11時前に『反哲学的断章』読了。かなりおもしろかったのでこれについては後述。途中、10時にはヒトリエのライブのチケットをとりました。恵比寿のリキッドルーム。テンションあがる。

安定のやよい軒味噌カツ煮定食食って再び図書館へ。佐々木中『九夏前夜』をちょうど12時から読み始める。佐々木中の小説、基本雰囲気ゲーだと思ってるんで勢い重視で読了。13時。文体が合う人にはめっちゃいいんじゃなかろうか...かくいう僕も虜の一人......

 

その後なんとなくお腹が痛くなって気持ち悪かったので3冊読み終えたし、ということで帰宅。ゴロゴロ。

読書は十分だと感じていたのでモンハン。野良でキリン亜種のギルクエのレベルをあげる。結論、うまい人はめっちゃうまいしへたい人はパーティーから排除したくなる。野良プレイ、こんなにガッツリやったのは初めてかも。その後野良の少し緊張する感じに疲れたので友達と一緒にキリン亜種睡眠爆破。2人でレベル90まで押し上げる。頑張った。僕のニトロダケ、友達の火薬草が切れたところでキリン亜種やめて、テオとかやってみたり。

手持ちのギルクエではシャガル99ランス・キリン亜種90弓ボウガン・テオ75大剣の三つは育てていきたい。

 


 反哲学的断章読んだ感想というか考えたことというか普段考えてることにこじつけてみたとか。

 

まず昨日の分の日記(更新日は今日、3/1)のタイトル「おもしろいものとおもしろくないもの。」について説明しなきゃいけないんだけど、これはクッソ簡単に言えば僕がおもしろいと思うものは周りの人はつまらないと思っていることがあるし僕がつまらないと思うものをおもしろいと思う人がいる、ってだけの話。「おもしろい/おもしろくない」というより「イタい/イタくない」っていうレベルの話に多いんだけど、Twitterとか見てるとこの自己紹介文とかツイートとかおもしろいと思ってやってんの?って感じることがめちゃくちゃあるって話。もちろん全員が全員ウケ狙いでTwitterやってるとは思ってないけど、「おもしろいっしょ、ドヤ?」感があからさまに透けて見えるツイートに関して強烈に「イタい」と感じることが多いってことは、多少なりともウケを狙った発言に対してこちらが全く反応してないということだと思う。それってやっぱり僕(を含む集団)とその相手(を含む集団)の間にあるユーモアのセンスの違いだとかそういったものに根本的な原因があるとは思うけど、まぁ結果だけ捉えれば、さっき書いたように「僕がおもしろいと思うものは周りの人はつまらないと思っていることがある」っていう結論に達するわけ。

って話を「おもしろいものとおもしろくないもの。」の中ですればよかったんだけど見ての通りまとまってないのでタイトルにだけ残してやめておいたわけ。こんな全く練られてない駄文を一度やめたにも関わらずわざわざ書いたのは『反哲学的断章』の中になんとなーく似たようなことが書いてあったから。

私の本は小さなサークルーサークルと呼べればの話だがーのためにだけ書かれている。そう言ったからといって、私はそのサークルを人類のエリートだとは思っていない。だが彼らは、私が顔をむけている人たちなのだ。それは彼らが、(ほかの人たちより優れていたり、劣っていたりするからではなく)、私の文化圏の住人だからである。ほかの人たちが私にとって異邦人であるのにたいして、彼らはいわば祖国の同胞なのだ。

 これとか

君がやった仕事は、ほかの人には、君自身にとってほどは重要ではない。

 これはまさにって感じですよね。ある意味、これは自分に向けられたメッセージなのかどうか、というコミュニケーションの前段階となる問いとかとも関連する話だったりするのかもだけど。確かに、僕がたまたまTwitterで目にしただけで独断と偏見でスベってるイタいやつを決めつけ、それに対して文句を言っている、という見方もできると思う。けど、僕と全く違うセンスの人間が実際にいるってことをちゃんと受け止めようとすることは必ずしも悪いことではないんじゃないかなぁ。一つ目の引用の中にあるように、優れているとか劣っているとかそういう話じゃなくて、極端な表現を使えば話が通じない相手がこの社会には無数に存在する、という事実を捉えることに一定の価値があるんじゃない?

 

結局「君と僕とは違う」っていうすごく普通の結論になるんだけど、さ。まぁデカルトだって理性の万能を信じてたけど思いのほか理性を正当に行使している人が少ない(=自分と他者の違い)ことを認識してから始まってるわけだし。実感を伴ってたどりつけたなら、よしとしよう。

 

他にも色々メモって読んでたんで、いいな、と思った文を残しておこう。

 

時代に先行しているだけの人間は、いつかは時代に追いつかれる。

以前、年配の物理学者たちは、自分が物理学をやっていくには、あまりにも数学がわかっていないということに突然気づいたそうである。ほとんど似たような話が、今日の若者にも当てはまるだろう。人生の奇妙な要求にたいして、まともな常識がもう役立たずだという状況に彼らは、突然、投げ出されているのだ。なにもかもが錯綜しているので、その克服のためには特別の分別が必要なのである。つまり、ゲームが上手にできるだけでは十分ではない。これからどんなゲームをやるべきなのか、という問題がたえず生じているのだから。

思考にも、耕す時と収穫の時がある。

最後のやつなんかは単純に今日のタイトルにもしてるインプット/アウトプットの話だと思ったんですけど、違うんですかね?